画家川田祐子自伝
学芸員さんのお手伝い
それまで、学芸員という職業の人と一度も会ったことがなかった私。とても緊張して神奈川県立博物館の学芸員室に入った記憶があります。さぞかし難しい顔をした人たちが集まっているのだろうとしか想像していませんでした。早速、手伝ってくれる人を見つけていた、歴史担当の学芸員Tさんの机まで行ってご挨拶。
「わぁ~助かるよ~。本当にてんてこ舞いでだからね~。」
本棚と本棚の隙間から、ニョキッと姿を現したその人は、まだ30代半ばでしょうか?ネクタイなしのラフなポロシャツ姿。とても優しそうな人でホッとしたものでした。
「僕はこの4月からひょんなことから採用されて、早速科研費をもらってしまったものだから、専門の研究論文を一本書かなくてはならなくてね。何もかもわからないことだらけなんだ。おまけに、毎日通勤に片道1時間半くらいかかるんだ。本当に大変。はぁ~。」
「どんな仕事をするのでしょうか?美大生の私でも出来ますか?専門ではないものですから。」
「いいのいいの、言われた通りにね。えーっと、この本の中に出てくる神奈川県内の寺院名を一つ一つ資料カードに書き込んでくれれば良いだけ。字は読めれば良いから、難しく考えないで。はぁ~。」
その後気づくのですが、「はぁ〜」はこの人の口癖。さらに、たまに声が裏返るのでした。手渡されたその本は、所々旧字体が出て来る、古文書の内容を活字化して出版された本でした。古本屋の本で育った私は、旧字体の岩波文庫の文字を少し見慣れていました。まさか、こういう時に役に立つとは思っていなかったことですが。なぜか万年筆を借りて、書くように言われてドキリ。最初は何かと不慣れで指はインクで汚れ、肩は凝流話で...、それでも窓を見上げると、隣も石造りの歴史建造物で、外国のオフィスにいるようでした。
同じ一つの部屋に7人ほどの歴史系学芸員、上の階には、もう二人いるのだと言うことでした。その他、地質系、考古学系、自然系には植物、昆虫、動物と、その他教育普及など、それぞれの研究室があり、様々な学芸員が働いているという説明でした。
その人たちが朝、お昼、3時などに、それぞれの場所で一つのテーブルを囲み、集まるので、たまに違う部署に顔を出しても良いということでした。たわいものない話しからはじまり、会議の前の打ち合わせや、世間話しに耳を傾け、お茶を飲みながらじっと大人しく聞いていなさい、というのです。最初は、何が何だかちんぷんかんぷんだったのですが。やがて慣れてしまうと、学術という世界のいろいろな側面を肌で感じる経験は、その後の私にとても大きな刺激になったのでした。
大学1年のゴールデンウィークに初めてお世話になってから、何とその後9年に渡り、その居心地良い仕事をさせて頂きました。当時雇ってくださった理由は、おそらく、アルバイトと言うよりも後進の育成という意味もあったのではないか、と時々思うことがありました。
「将来は学芸員になるの?」と聞かれることが度々ありましたが、担当のTさんは、私にこう言うのでした。
「僕はね、驚くような出来事で念願の学芸員になれてしまって、一生分の運をここで使い切ってしまったかもしれないなぁ。絶対学芸員になれないと思っていて諦めて、小学校の教師をしていて、毎日何か違うと思い続けていたある年、お父さんの職業の欄に「博物館学芸員」と書かれた子供の担任になったんだ。その時、その文字がすごく光って見えたよ。(はぁ〜)それでどんなお父さんなのかなと思って、家庭訪問の時にすごくワクワクして訪ねて行ったんだ。そしたらね、自分の悩みをつい打ち明けてしまったら、何と、そのお父さんが、『学芸員をやめて大学の教員になるところだから、一つ空きができる。すぐに採用試験を受けなさい。』って教えてくれて、試験に通ってしまって、本当にびっくりするような出来事だった。(はぁ〜)そういう僕が言うのも変だけど、世の中には、いろいろな仕事が沢山あるから、諦めないで、学生の内からよく調べておくといいよ。」
このTさんをはじめ、そこに集まる人たちは、本当に学術研究に情熱を燃やしながらも、人として和やかで温かみのある人たちばかりでした。たまに人生の先輩として教え導いてくれたり、ある時はお酒の席で賑やかにハメを外したりと、まるで懐かしい昭和の学園ドラマのワンシーンのようでした。
あまりに良い仕事に恵まれたので、ある時にTさんに、「良い経験をさせてもらって、どう恩返しして良いかわかりません。」と言ったのです。すると、忘れもしません。意外な言葉が返って来ました。「恩返しは、次の若いに向けて下さい。実は、僕も学生の時にそう言われたんですから!」(その後、この言葉がどのような私を作り上げていくか?...続きはまた後で。)
そしてお仕事の内容は?というと、科研費研究のお手伝いに始まり、その後所蔵品の確認作業、資料整理、横浜浮世絵の保管作業(用意された台紙に浮世絵を乗せて、版画の絵柄だけが見えるように窓枠を開けるタトウ作り)、所蔵品の写真ポジの整理、そしてやがてワープロへのデータ入力の仕事も随分しました。ワープロが導入された当時、誰一人操作するスキルがなかったのですが、マニュアルを渡されて、「何とか自分で調べながらやってもらえませんか?」と頼まれた時は、本当に驚き、嬉しかったものでした。機種は、初めは富士通のオアシスでした。最後はパソコンも導入され、すべてのデーターを移し替えるらしいという手前までお手伝いしました。
実は、大学では、コンピューターの授業をすでに受けていたので、少し自信があったのです。当時200万円以上するという、今や伝説にもなっているスティーブジョブズが初めて成功をおさめたマッキントッシュ(今のアップル社の前進)。その一番最初の小さなデスクトップ(まだモノクロ画面)が教室に一台置かれていたのでした。
課題は、例えば「メタモルフォーゼ」。教授が、田中角栄の似顔絵をゴリラに変換させるプログラムを作り、ゆっくり変化するアニメーションを見せて、このプログラムで、何でも良いから変身させなさい、という内容でした。その変化の軌跡を当時ぺんてるという文具会社が、カラーペンを何本も取り付けた画期的なプリンターで、一枚の紙に印刷させるのでした。ペンが何本も、氷の上を滑るスケーターのように動き回るのです。全紙くらいの大きいサイズの紙にも対応している大掛かりなものでした。
大学では、絵画、彫刻、版画、写真、コンピューターと、次々と週替わりで先生が入れ替わり立ち替わりで、次々と課題をこなす一方、土日祭日、学園祭の期間や、春夏の長期休暇期間は、もっぱら博物館のアルバイトに通いました。そして、アルバイトで稼いだお金で、さらには、青山にあるドイツ語学校にも週3日、大学の授業が終わる夕方には、校門を出てまっしぐらに東高円寺の駅に向かい、地下鉄を乗り継いで通いました。家に帰るのは夜11時近く。課題はしなければならないし、次の日も朝早く出て2時間半かけて大学の授業に間に合わせなければなりません。
思いつめた私は、どんなことでもまっしぐらに突き進む性格。そんなこんなで気持ちはいっぱいいっぱい。 とうとうある日、思いもよらない場所で、それが爆発してしまったのでした。(次号につづく)