画家の経済学ー画材を購入する自己投資の意味について考えてみる

昨年はピケティの『21世紀の資本』が空前のベストセラーとなりました。
一応ざっと目を通しただけで内容を理解出来ているわけではないのですが、まだまだ勉強をしなければならないことが沢山あることを実感出来ました。今は『シュタイナー経済学講座』も読書中です。

作品を買って下さる方の中に投資家として生計を立てている方がいるので、知らず知らずそちらの方面にも興味を持っています。私はお金儲けとしてではなく、「自分に投資をするとはどういうことか?」を考えるために参考にしています。

私にとっての自己投資とは、例えば画材の購入です。ギリギリの経済状況の中でも、どうしたら納得のいく画材を買う事が出来るか、とても判断が難しいのです。良質な画材はとても高価なものです。身近な安上がりな材料に価値を与える事も、確かにやりがいのある仕事なのかも知れませんが、私はできる限り良質な画材を使いたいと考えるようになって来ました。

新しい画材との出会いによって、新しい世界が開かれるのと同時に、画材を変えても変わる事のない、自分のコアというものを確認するためです。

新しい画材を買い込むためには、ざっと1ヶ月分のアトリエ家賃分が必要という計算を立てます。
1ヶ月生きながらえるのと、新しい画材に挑戦する事で得られる可能性とを両天秤に乗せて、かなり長く迷います。Amazonや楽天、はたまたイギリスやドイツをはじめとする世界中の画材のオンラインショップやヤフオクやメルカリなどの中古品もチェックします。
送料無料、ポイント還元、配送のスピード、支払い方法の充実度、抱き合わせで買う画材が充実しているかどうかの品揃え等々。さまざまな条件を考えるとどれも凄くお得、という情報はめったにありません。結局直接見なければ判断出来ないとなると、往復を高速バスで新宿に直接行って買った方がはずれがないという判断も出て来ます。

しかし結局のところ、新しい画材は使ってみなければわからないので、いろいろ買い揃えておいて、結局長年使わなかっものがたまった時に、ヤフオクやAmazonなどで売ることにしたものもあります。一時は『画材百花』という画材オンラインサイトを自前で作って販売していた事もあります。中古画材といえども、ヤフーショップを使っていたので、全国から注文がありましたが、そもそも元手がかかっていますので、利益になるわけではなく、配送などに手間がかかって継続は1年くらいでやめてしまいました。画材についての問い合わせも頂く事があったので、いろいろなノウハウとを伝えたり、舶来の画材情報などもブログにしていましたが、今はもうそのサイトはありません。

画材をまとめてアトリエ家賃分買う時は、本当に汗が滲み、ドキドキします。本当に使いこなせるのだろうか?何度も自分に問い、一大決意をして買うのです。紙にしても、絵具にしても本当に高い。アルシュというフランス製の紙を一枚無駄にすると、「あぁ」と1枚分に相当する食べ物を食べた時の感じを想像してみたりします。1本約3000円以上するカドミウムイエローの絵具を買い足す時なども、スーパーに行って、買いたいものを全部紙に書いて、それとどちらにするかを考えて、お腹の中に消えて行くものと作品として残るものとを比べて、やはり絵具にしようということになります。

判断の基準は、ここが投資家とちょっと違う所で、いまここにその分のお金があって、買いたい画材があったなら、1ヶ月先の家賃よりも今の画材を買うと決めることです。なぜなら、その画材によって、ダイナミックチェンジが可能になる場合があるからです。ダイナミックチェンジとは、自分の見る世界そのものが変わる事です。同じ地球で、同じ場所に居たとしても、見えている世界が変わります。より自分のコアに近くなれば、それに見合った環境が見えて来るという感じです。

画材をケチケチして、安価なもので満足している状態には、そういうことに興味を持つ人が作品に集まって来ると言うとわかりやすいかもしれません。逆に言えば、アングラで、つましい画家を生きたいのであれば、それがもっとも一番の近道というわけです。

おそらく私自身がまだ知り得ない、想像を絶するような高額な画材や、そういう高額な画材を買える画家、そして想像を絶するようなコレクターが地球のどこかに存在します。それに見合うような意識がなければ、出会いもなければ、想像する事もできない。ただよくわかることは、かつての自分が通り過ぎた安価な画材を使っている人や、そういうことに興味を持っている人たちの事は、「あぁ、かつて私もそうだった」と気付く事ができるだけです。

それで、どうしたらそういうかつての意識ではなく、向かうべき意識に目を向けるにはどうしたらよいか?といえば、とにかく今の自分がとても不可能だと思うことや、絶対無理ということに立ち向かう事です。立ち向かうとは、見ないようにするのではなく、とにかく現実の自分の生活に一つでもいいから少しずつ取り込んで行くことです。そして、知ろうと努力する事です。自分にぴたっと来る画材が、私の作品となることを、地球のどこかで夢みているに違いないと考えてみることです。

そうは言っても、「絶対無理なんだからできない」そう人は言うに違いありません。

先日YOU TUBEでたまたまクリックしたら、33歳にしてドバイの高層マンションに住んでいるというネットでは有名な投資家が、投資の極意をちらっと話ししている動画があって、凄く腑に落ちたので、ここで私が理解した部分だけかいつまんで記録しておきたいと思います。

1.もし株を買うなら、短期利益ではなく長期(だいたい30年後)の利益を考えて買う。

2.人が勧める今買いの銘柄は、実はほとんど利益にならない。

3.利益になる株は、まだ人が知り得ていない無名の時期の株で、その長期にどれだけ可能性を見る事が出来るかを、様々な情報を獲得するために多角的に死ぬ程猛勉強をする。

4.利益を生むタイミングも大事。株が暴落するということがたまに起こるが、その暴落の中でも、巻き返して復活を遂げられる株が存在する。それを見極める事ができれば、少額で株を購入して、後に数倍に株が育って、大きな利益が見込める。

5.株は数百万単位で買っても、失敗をするだけで終わってしまう。株から不労収入を得るような生活を望むのであれば、数千万単位で買える蓄財が必要。先の株の暴落などの大きなチャンス時に、そのお金を持っていて使えるかどうか?そこで明暗が分かれる。

これを画家にとっての投資に置き換えてみるとこうなります。

1.すぐに評価されることを追い求めない。だいたい30年後に多くの人が当たり前となるようなことを真っ先に30年前に制作していなければならない。

2.人が評価している作家のことなどに煩わされない。今の時流に流された制作は、高々ここ数年以内しか通用しない。人の気持ちはすぐに変わってしまうものだから。

3.意義のある制作とは、当然発表当時は、ほとんどの人にピンと来ないし、理解されない。それでも制作に制作を重ねて叡智を養い。さまざまなことを勉強し尽くして、世の中の動向や、人の意識の変化を洞察することで、人の意見に左右されずに自分なりの信念を持って発表し続けることができる。

4.美術界の不況、不振は、ある意味大きなチャンス。そういう苦しい時期に、制作を続け、作品を沢山残し、発表を続ける事ことにこそ必ず付加価値が生じる。

5.並の画材購入で、そこそこに制作発表するだけであっては、大きなチャンスにはなり得ない。使える時にこそしっかり画材を購入し、使い尽くすことで、必ず見えて来る作品、環境、人との繋がりが必ず変わって来る。

本当に画材を購入する時に、つくづく自分が試されます。そして本当の自分の気持ちがどの辺にあるのか、なぜそれを買って使ってみたいと思うのか、じっくり正直に自分と向き合う必要があります。人間だから、さまざまな欲が去来します。その欲が、画家としての歩みに足かせとなっていないかどうか、よく考えることができるはずです。

画廊との交渉で重要なこととは?ー1996年銀座にて

当時、画廊といっても、さまざまなタイプがありました。

1.敷居の高い画廊
2.市民ギャラリーのような、町のコミュニティの場を提供している画廊
3.カフェギャラリーなど、お店の余ったスペースを利用しているところ
そして、
4.貸し画廊

銀座や京橋界隈では当時、若手作家を応援するような貸し画廊がいくつも存在し、
毎年ある時期に、各画廊が一押しの作家の個展を発表し合う企画もいくつか開催されていました。
どうやったらその渦中に加わることができるのか、まったくあてなどありませんでした。
画廊を訪ねてみても、作家やスタッフはいても、オーナーらしき人に会えません。

それでもなるべく時間を作って、画廊散策をしはじめたその矢先に、
一通の手紙が銀座の画廊から舞い込みました。

「あなたの個展を考えています。
ご興味がありましたら、一度画廊に資料を持っていらして下さい。
お待ちしております。」

実は立ち寄ったことのない画廊でしたが、一機にテンションが上がりました。
作家活動をしている友人に、その手紙を見せると、

「銀座の画廊はよく用心した方がいいよ。
一人で行くのは危なっかしいから、ついて行ってあげようか?
それからポートフォリオは大事。
これまで制作した作品の写真ファイルを作って持って行った方がいいよ。」

「他に銀座にあてはないし、画廊を回っても、ここで個展をしたいとなかなか思えないし。
そういう話に乗るというのもよいきっかけになるかも...。」
と、もうその時点でほとんど乗り気になっていました。

当時は、フィルム・コンパクトカメラで撮影して、
スピード写真のお店でプリントした作品写真を、
A4の用紙に貼付けたファイルを1冊つくりました。

それを持って画廊を訪ねて行くと、初老の店主が奥の応接室に招いてくれました。

「あなたはどういう作家になりたいですか?」

「はぁ。とにかく沢山個展発表をしたいと思っています。」

「それはとてもいいことですよ。それで、うちは完全な貸し画廊なので、1週間でこの金額になります。」

手渡された利用規約を見てみると、かなりの金額でした。40万円くらいの金額だったと思います。
とても払えそうにありません。
ついて来てくれた友人も脇からその金額をのぞいて、顔を横に振っています。

「これまでの個展は、作品が売れるので、企画や半企画でしてもらっていたものですから...」

「ふ〜ん。どういう人が買うんですか?知り合いですか?」

「いろいろです。知り合いもいれば、始めて会った人とか、作家もいます。」

「へ〜。でもね、作家はコレクターが買うようにならないと、話しにならない。
知り合いは、そりゃ一度は応援しなきゃと思って買うでしょうが、
二度三度はとても付き合いきれないから、個展にも来なくなるもんです。
コレクターって言ったてね、ピンからキリまでありますよ。
大コレクターが買うならともかく、
規模の小さい趣味程度のコレクターまでいるわけですからね。」

「そういうもんなんですね...」
その脇から友人が腰を上げはじめました。もう帰ろうという合図です。

と店主も素早く反応し、

「まぁ、それでも何回か続けてここで発表するというのであれば、半企画でもいいですよ。」
すると別の利用規約が出て来て手渡されました。

「その代わり、DMは作家が自費で作る。
作品が売れたら売上の30%を画廊が受け取る。
こういう条件でどうですか?」

友人は少し首を傾げていましたが、私はつかさず
「是非お願いします(ペコリ)」と応えたのでした。

画廊を出てから、友人の顔を振り返ると、何だか不機嫌そうな様子です。
「最初の利用規約で承諾していたら、倍の金額だったわけでしょ?」

「いいじゃない、半額になったんだから。言ってみるものね。」

「人を見て、出て来る利用規約が違うなんて、
もしかしたら、もっと他にも条件のいい規約があったのかもよ。」

私はすっかり得した気分でいたわけですが、
しかしもっと肝心なことが全く抜けていたのでした。

1.私は一体、どのような空間でどのような個展をしたいのか?
2.その画廊で発表している作家は、どういう作品をつくって、どのような活躍をしているのか?
3.そもそもその画廊はどういう努力をして来ているのか?
4.その画廊で発表することは、作家としてどのような色がつくことなのか?

本来ならそのようなことを深く考え、お互いをよく知るために、画廊と交渉するべきです。
当時の私はまだ未熟で、全く何も考えずに突き進むばかりでした。

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残った作品が、その時代の顔になるー1996

当時の作風は、紙をパネルに水張りしたものに、
水彩ボールペンでドローイングするという手法でした。

毎晩朝方まで、オフホワイトの水彩紙の画面を、
0.3mmくらいの細字ボールペンで埋めて行きます。
とても根気が入り、時間がかかりましたが、
筆記用具の滑らかな書き味に助けられ、
そして塗り残しの紙の白さが、
線描の背後から光を放つような透明感の効果を助けてくれていました。

身近な材料を使うことが、現代的な表現になると自分では思っていたのですが...。

ところが会期中に、ある年配の男性が画廊に訪ねて来て、
こういう感想をポツンと言い残して帰られました。

「白さというのは、確かに最も美しいことだろうね。
紙の白さをうまく活かしている。
....しかし、美しいものほど、弱さを感じてしまうのはなぜなんだろう?
いつかは壊れてしまうんじゃないか?
そう、見る人に不安を感じさせるからなのかなぁ...。」

今の私なら、その感想は褒められていると受け取ることもできるし、
半ば批判の意味もあるだろうなぁと両方の意味を汲み取りますが、
当時の私は、どちらかというとご批判として受け止めたのでした。

実際、このようなご意見を言う人は一人だけではありませんでした。

「現代作家の作品は、画材ではなくて身近な日常の素材が使われることが多いけど、
おそらく50年たったら、形がすっかり無くなってしまうわよ。
紙を使うなら永久保管が保証されている中性紙を使いなさいよ。
一般に普及している簡易紙というのはね、どんどん酸化して行くの。
酸化というのはね、紙が燃えていることと同じ状態。
ほら、わら半紙なんかが良い例。時間が経つと周囲から茶色くなっていくでしょ。
あれが燃えているってこと。
残った作品こそが、その時代の顔になる日がやがて来るのだから、
100年後に目を向けて制作するべきよ。」

ごもっともと拝聴したこの意見の持ち主は、
大学で学芸員の資格をとった後、当時美術品修復の工房で修行を積んでいた女性。
某博物館準備室の資料整理のアルバイトで一緒に仕事をした縁から、
その個展に駆けつけてくれたのでした。
この人はその後、兵庫県立美術館の美術修復担当の学芸員になって今に至る人ですから、
なかなか当時も辛口のご批判。

ちなみに先の年配の男性は、実は画廊店主のお父様でした。
「俺の親父はね、喰えない英米文学者でさ〜」って言われていましたが、
ずっとそのあと10年後くらいに、アーサー・ウェイリー関係の本を読んでいた時に、
研究者の名前が気になって調べてみたところ、この人こそが店主のお父様、加島祥造氏でした。

アーサー・ウェイリーは、大英博物館の資料室で源氏物語を一から英訳した異彩のユダヤ人で、
私の尊敬する言語学者の一人ですが、そのことはまた別の機会にゆずりましょう。

その後加島祥造氏は、禅や老荘思想のエッセーの著作を世に出し、
次々とヒットを出して有名になって行きました。

そして私は、これらの貴重なご意見を真摯に受け止め、
画材の吟味、新しい手法を編み出して行くことになるのです。

美術作品に値引きはないー1996ー大気堂

横浜の関内駅から歩いて5分くらいの場所に、

かつて大気堂画廊がありました。
周囲はオフィス街。
黒塗りの天井や作家ものの無垢の長椅子、
落ち着いて美術を楽しむにはもってこいの場所でした。
そして夜な夜な美術愛好家たちが、この場所に集まりつどい、
さまざまな作家を交えて美術談義に花を咲かせていたのでした。

住まいの地元の画廊とは、また違う種類のお客さん達です。

作品を買って下さる作家と出会ったのは、ここがはじめてでした。
「作家が人の作品を買うなんて!?」最初は驚くやら、半信半疑。
しかしどうやら店主の話によると、
その作家は画廊経営を応援する意味で買って下さったということでした。

作品が画廊で買われるというのは、そのような複合的な意味が交錯します。
けっして作品の力だけではありません。
その画廊で発表するから買う、ということもあるのです。
あるいは、店主の人としての魅力とか、画廊のステイタスを、
作品と一緒に買うという楽しみが世の中には存在するのです。

ところが会期中に、あるお客さんが、店主と立ち話しているうちに、
次第にヒートアップする場面がありました。

近くに寄って話しを聞いてみると、
その人はどうも私の作品が欲しいらしいのだけど、
値引きを交渉しているようでした。

「この作品、◯◯くらいの価格だったら買うんだけど。負けてよ。」

「うちはただでさえ経営が大変なんだ。
ここの母体が趣味でやっているように思っているかもしれないけど、
会社は沢山の従業員を抱えていて、毎月お給料を払っているわけだし、
僕もねその一人なんだから、ノルマっていうものがあるからね。
それ相応の売上がないと、他の社員に面目立たないわけ。」

「このくらいの大きさの作品だったら、
前の個展の作家では◯◯くらいの値段じゃなかった?」

「じゃぁ、その作品を買えば良いじゃない。
あの時あんたはそれを買わなかったでしょ?
そんなの理由になんかにならないよ。」

「売れないより、売れた方が売上になるじゃない。
安くったって売れた方が良いに決まってるって。」

「あのねぇ。美術作品に値切りっていうのはあり得ない。
よく考えてみてよ、美術作品の価値なんてものはさ、
もともとあってないようなもんさ。
ってことはだね、何でもアリだと思っているだろ?
そうだろ?そう言っているわけだろ?
ところがそこが違うんだ。
美術作品の価値はだね、
それを売る人間がこの価格だって決めて売らなきゃ、価値なんて生じない。
だから、この俺が、この画廊でこの価格だ、って決めたからには、
誰が何と言ったて、それを俺が変える必要があると感じなければ、
絶対変えることはないってことだ。
わかったかーっ。」

その人は店主の叫びにも似た喝に圧倒されて、一目散に店を出て行きました。

私はこの出来事からとても重要なことを学びました。
当時の店主の感情的な言葉だけではわかりにくいと思いますので、
ここで私の補足説明です。

確かに、美術作品には売れ筋の価格というものは存在します。
しかし、そこで安穏として、ただ売れるというだけで満足していては、
作家も画廊も美術業界も何も成長が期待出来ません。
ちょっと売るのが難しい、そういう価格に挑戦することも大切なのです。
もう少しお客さんに対する言い方というものがあったとは思うものの(苦笑)、
しかしこの店主はなかなかの人だった、と私は今でも振り返ります。

当時はバブル崩壊直後ではありましたが、
まだ投資目的で美術作品を買う人が少しは存在していました。
若手作家の安い時期の初期作品を早くから買っておこう、
そういう風潮はたしかにありました。

さてこうした投資目的の美術愛好家は、バブル崩壊後、瞬く間に消えて行きました。
デパートなどの美術画商から、高値になると太鼓判を押されて買い込んだ作品が、
次々と値崩れを起こして行ったからです。
当時の痛手は、その後ずっと美術業界全体への不信感へと広がりました。

そんな大不況のはじまりに、私の作家としての歩みが同時に始まりました。

日本では、ほとんどの人が生活必需品ではない、と感じている絵画作品。
そんなものがどうしてこの不況に売れるのか?
その後度々、周囲の人に半ば批判として浴びせられたその言葉。
私自身も全くその答えがわからないまま、
それでも私の小作品は個展の度にほぼ完売のようにして売れ続けたのでした。

その答えは、今なら言葉で説明出来ます。
しかし、その当時はその答えを持たずに、
ただただ直感に従って自分の生きるべき道をただひたすら走り続けました。

その指針は一重に「自分を信じること」

信じるべき自分として毎日一所懸命生きること。

自分を欺き、人を欺くような美術作品は、瞬く間に一掃されてしまうものです。

自分を信じることができれば、
その自分を信じてくれる人が必ず現われ、その道を支えてくれるのです。

これが「自然の理」ということなのでしょう。

半企画の個展とは?ー1996ー大気堂

わらしべ効果は、次々と続きました。
地元の画廊での個展DMを、あちこちの画廊に送ってみたところ、
横浜の画廊店主がわざわざ相模原まで見に来てくれました。

「遠くまで見に来て下さってありがとうございます!」
「DMに小さく、うちの画廊で個展をしてみたい、
って書いてあったものだから、見に来たんだけど。
何でうちの画廊で個展をしたいと思ったの?」
「大気堂という画廊の名前がいいなぁと...。
大気という題名の作品を発表したいんです。」

「ふ〜ん。あのね、うちの画廊は、大気堂印刷という会社の一階のエントランスを使っていて、
それでそういう名前になっただけだよ。
そんなに深い意味はないんだけど、いいのかなぁ。」

「はい。」

「僕はね、そこの雇われ店主でさぁ。
社長が誰か画廊を経営してくれないかって、人を捜していてね。
僕の父親がそこの印刷会社に本の執筆で出入りしていたもんだから、
フラフラしていた僕に白羽の矢が当たったわけ。
僕の父はね、君も知っているかどうかわかんないけど、
大学の非常勤講師で英文学教えていてね、
全然食べて行けない職業でさぁ、
で僕もこんなことしているんだけど、
ただ個展やっていても食べて行けないのよ、そんなんでいいの?」

「....」

「それでさぁ、うちの画廊はね、
貸し画廊なんだからそれなりの金額を支払ってもらって何とか経営していてね。
でもまぁ、作家側は支払いが大変でしょ、
見たところ、君の作品結構売れていることだし...。
それでこういうのを半企画って言ってさぁ、
使用料の半額を支払ってもらってね、
それで売り上げの半分を分け合うってどう?....」

「よろしくお願い致します(ペコリ)」

元気によくしゃべる桑田佳祐似のこの人は、それから2〜3時間くらい居座って、
結局11月の個展を約束して帰って行きました。
個展会場にしている画廊主の目の前で、何となく失礼な感じもしたのですが、
成り行きで起きて来たことです。

「半企画?」

その後だんだんに分かっていくことなのですが、
画廊で個展をすると言っても、ケースによって、全く評価が違うのです。
しかし、それは暗黙の了解のようになっていて、外からはあまり区別がつきません。
日本では契約という言葉はかた苦しいと敬遠されているのか、
これは一種の慣習のようになっています。
分かる人にはわかっている個展のランク付け。
同じ画廊でも、作家によって支払いの割引率が違っていたり、取り扱い方が違うようでした。
しかし、誰もそのようなことは公言しないので、実体はきわめて不透明です。

1.貸し画廊で、高いお金を支払って行われる貸し画廊個展。
2.貸し画廊でも、筋のある作家には、使用料を半額などの割引をする半企画個展。
3.キャリアを積んだ作家を取扱い作家として、画廊が企画する企画個展。

バブルの時に右にならえで、次々と増えて行った日本の画廊。
しかしその一部は、バブルの崩壊とともに、存続を掛けて貸し画廊に転向して行ったのでしょう。
当時横浜にはいくつも若手作家の個展を大々的に開いてくれる画廊があったのですが、
私の記憶では、その全てが今はもうありません。
この大気画廊もやがて雇われオーナーが独立。
その後銀座に現代作家の作品を展示する、「バーTOKI」をしばらく開いていましたが、
それも今はもうありません。

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大気堂画廊1996年11月19日-30日

作品の価格ー1996ーフクヤマ画廊

1995年の三鷹での初個展の効果は、その後も続き、
住んでいる地域の画廊からも声がかかったのでした。
当時はとにかく来るもの拒まずで、
声が掛かったら、すぐ素直に乗るようにしていました。
私は33歳で初個展でしたから、
早く画歴というものを沢山、発表歴に書き込む必要がありました。
誰かにそれを指摘されたわけではありませんが、
さまざまな画集に掲載されている展覧会歴を見て、
年間に3回くらい個展をした方が良いと自分で判断したのです。

当時は相模原の個人の美術館で学芸員をしていて、
その仕事もとても面白く、制作との両立はとても難しいことでした。
ほとんど寝る時間は午前3時過ぎ。
当時は若かったこともあって、それでも元気一杯の毎日でした。
画材のことや、技法のことを突き詰める時間はなかったけれど、
身近にある描材を使って、即興的に次々と作品を仕上げて行きました。

一つの個展をすると、自分自身に得るものが多く、
さまざまな知恵が身に付き、手応えが大いにありました。

3回目の個展をさせて頂いた地域の画廊は、
見た目は相模原に埋もれた画廊でしたが、
業界内でいち早くインターネットを導入した、
最先端の販売システムを持っている画廊でした。
当時は、まだパソコンが家庭に広く普及していませんでしたし、
携帯電話もなかったし、インターネットは電話回線を使っていた頃です。
重い作品画像などをアップするのは大変だったと思います。

仕事帰りに自転車で画廊の前を通りがかると、
夜遅くまで室内照明がついていて、
店主がPCにかじりついていたものです。

その店主から学んだ重要なことが一つあります。
それは作品の価格のこと。

その画廊は、目立たない所に「古物商許可番号」のプレートを掲げいました。
これは、人が手放した美術作品を販売する許可を得ているということです。
このプレートを持つ画廊は、「交換会」という場所に集まって、
美術作品の物流を確認したり、在庫で抱えている作品を競売にかけたり、
売れそうな作品を仕入れて来て販売することができるのです。
ですから、その店主は美術業界内で常識とされる作品価格を、
私に伝授してくれたのでした。

「ちょっと相談なんだけど、言っていいかなぁ?あのねぇ...、
この価格は、もう少しこのくらいに下げると、必ず売れるんだよ。」
「そんなもんなんですかぁ?」
「僕のお客さんには、交換会に出ている人が多いから、
どうしても低い設定でないと興味を持たないの。」

当時の私は、作品が売れることで、
どれだけ自分の制作のテンションが上がるかを知っていたので、
金額ではないと思い、即店主の意見に従うことにしました。

当時ちょうどバブルがはじけた頃ですが、
それでも相模原という地域には、
バブルの感覚が少しだけ残っているという空気があったものです。
まだ町にはユニクロもなかったし、コンビニも目立っていなかった頃でした。
けれど、いち早くデフレスパイラルの予感を得た出来事は、
私の場合、この店主の一声からだった、と今でもそう確信します。

画廊店主のアドバイスで、作品は瞬く間に売れました。
しかし、また新たな疑問が生じて来たのです。

「このまま、地域で発表するだけの作家で良いのだろうか?」
「学芸員との二足のわらじで矛盾は起きないだろうか?」

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フクヤマ画廊 1996年7月12日〜18日

わらしべ効果と嬉しい誤算ー1996ー西瓜糖

それは、三鷹市美術ギャラリーでの個展開催前のことでした。
1000部も作ってしまって、もてあましたDMを置いてもらえる場所を探し歩きました。
と言っても、すぐにそのような場所は思いつきませんでした。
日頃から、そういう場所に気がついていれば良かったとつくづく反省したものです。
たまたま記憶に残っていた神谷町のギャラリー(現在はもうありません)に、
DMを設置してもらえるかどうか訪ねてみることにしました。

当時は若い女性スタッフがいて、とても親しく話したことがあったのですが、
DMを見せた瞬間に、あまり良い反応がなくて、
「うちでは置く場所がないので」と言われてしまったのでした。
よく考えれば、敷居の高そうなギャラリーでしたし、
神谷町と三鷹市ではちょっと距離があります。
ところがちょうどそこへ、また若い女性のお客さんが入って来ました。
そして紹介されたのです。

「この人に頼みなさいよ。ねぇ。三鷹近いでしょ?」
「なになに?」
「この人、三鷹市美術ギャラリーで個展するんですって。」
「うちなら設置するわよ。西荻窪のカフェギャラリーだけどいいかしら?」
「ぜひぜひ、お願いします(ペコリ)」
「私、西荻窪の西瓜糖っていう変な名前のカフェギャラリーでバイトしているの。
私も女子美出身よ。まかしておいて!宣伝しておくわね。(にこり)会期中私も見に行くね。」
「良かったわね〜♪」
「ありがとうございます!」

ということで、この女性が三鷹での個展に現われて、
次は西瓜糖で個展してみてはどうか、オーナーに頼んでみるから、と言ってくれたのでした。
まさに「わらしべ長者」のお話しのように、一つが次の一つに繋がったのでした。

西荻窪という場所、カフェギャラリーという空間は、
私にとっては、ちょっとしたアングラな感じで、ことの成り行きにテンションもあがり、
年末年始の2週間で新作を10点程仕上げてお正月早々の展示となりました。

ところが良いことばかりでもありませんでした。
カフェギャラリーで展示となると、
見に来て下さる人は必ず何かを注文しなければなりませんでしたし、
そして、店主もお店が暇だと何か言わなきゃ間が持たなかったのか、
キツい一言。

「君、銀座歩いてもっと勉強した方が良いよ。今頃絵なんて描いている人なんていないよ。
今はね、オブジェ。オブジェ作品をつくらなきゃ認めてもらえないね。」

私の中で、突然ふたつの疑問が生まれた瞬間でした。
その疑問は、ある時は将来の不安を招き、ある時は自分の存在を否定するのでした。
「絵を描くって、時代遅れなの?」
「銀座で認められるってことは、そんなに重要なことなの?」

ところが、その不安をよそに、個展終了日までに小作品は全て売れてしまったのです。
店主はちょっと信じられない、というような顔をしていました。
「また、機会があったらおいでよ。」って言ってましたが...、
あのキツーい一言がまたもや頭の中を無限ループして、
二度とそこへは行くことがなかったのでした。
そのカフェギャラリーも、とうの昔に消えてしまいました。
オブジェという言葉が、人々の記憶から消えてしまったように...。

閉店のおしらせを人づてに聞いた時に、
重要なことに気づいたのです。
そして、ノートにこれからの教訓として箇条書きをしたものでした。

1.自分自身が経験したことが真実。
2.人の言うことはあてにならない。
3.人からの情報は、必ず自分で歩いて確かめる。
4.人や世の中の意見に左右されない。
5.自分の本当に心からしたいことに真っすぐに従う。
6.人に認められたくて絵を描くのではない。

箇条書きの6番目はとても重要です。
もっと付け加えるなら、絵を描く理由なんて、
何も持たない方が良いというのが私の持論です。

なぜなら、分かりやすい理由には、必ず反対意見があり、
理屈でいくらでも反論されて正しさを立証出来ないからです。
むしろ、理由を持たない、人に話せない方が強いです。
ところが、自分自身が弱っていると、理由が欲しくなるものです。
何かはっきりした目標がある方が、人に弁解出来るからです。
でもそういう生き方は、必ずどこかで立ち行かなくなります。
大切なのは、一歩一歩です。
一つの個展が終わったら、次の個展に一生懸命になる。
ただそれだけを信じて、20年活動することが出来ました。

そして極めつけは、この個展終了後すぐに、予期せぬ朗報が舞い込んだことです。
西瓜糖にたまたまお茶をしに来ていた、装丁デザイナーさんから電話が入り、
個展DMの作品画像を岩波同時代ライブラリーの表紙に掲載したいと行って来たのです。

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この出版社からは、後にもっと大きな表紙画の仕事を頂くことになるわけですが、
この時に誰がそれを予想することが出来たでしょう。
銀座でもなかったし、画廊でもなかったけれど、そして絵だったけれど、
これほど次に繋がる効果の上がった個展を今でも、
「やって良かった」と胸を張って言えるのです。
そう思うと、あの無限ループしたキツい一言など、何の意味もなかったし、
むしろ今では感謝の気持ちで、
あの青春の1ページを懐かしく思い起こすことができるのです。

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西瓜糖 1996.1.5-22

運命を変えた出来事ー1995ー三鷹市美術ギャラリー

初めての個展でつくったDMは、確かグラフという会社で1000部15000円くらいで印刷してもらいました。

当時、私はMac Bookをすでに持っていたので、
IllustratorとPhotoshopで版下をつくることが出来たはずでしたが、
印刷会社を教えてくれた人の情報をもとにしたので、
記憶では、写真と専用台紙にプリント文字の切り貼りでDMの版下を作って郵送したのではないかと思います。

四苦八苦して、ようやく1000部DMが送られて来た時の感動と喜びは、何にも代え難いものでした。
ところが、それを送る住所が、100箇所にも満たなかったことは本当に残念なことでした。

さて、果たして、何人の人が見に来てくれるのかしら...?(心もとない...)

このことは、何年経っても自分に言い聞かせることですが、
個展に見に来てくれる人が何人か?なんて、人数は全然問題ではありません。
はっきり言えば、
「私の作品を心から理解し、好きになってくれる人、
地球上のその1人に出会うことができれば十分」
今でもそう確信しています。

もっと理想を高くしたら?と思われるかも知れませんが、
自分がこうしたいと思うことは案外叶わないものです。
ところが自分が思っても見なかったことが、私の運命を変え、
それらは本当に素晴らしい出来事だったのですから。

はじめての個展には、ほとんどが昔からの知り合いや、
職場の仲間が応援してくれて、それだけでもどれだけ心強かったことでしょう。
今でも、当時の職場の人たちや応援して下さった人に感謝の気持ちで一杯です。
展示を手伝って下さった人、会場の受付に立って下さった人、
お花やお菓子を持って来てくれた人、
面識のない人から、感想のお手紙が送られて来たり、
次の個展の予定を心配してくれた人。

と、ところがそこへ、一人の旅人が現われたのです。

その人が現われたとき、あたりは一面光り輝いて見えたのでした。
デイパックを背中に、伸びやかな歩みで、その人は会期最終日にやってきました。
そして一言、
「日本のここに、あるじゃないの!」と、会場の作品を見渡したのです。
そして二言目に
「いやぁ、僕はねちょうどニューヨークから帰って来たところで、
ニューヨークで作品を探しまわって結局何もみつからなくて...、
でも、ここにあるじゃない!ねぇ、これいくら?」
私は、目を丸くしながら、
「あの、この会場は市民の施設なので、販売は表立ってできないと聞いていたので...。」
と言いながら、咄嗟に出た金額が「4万円でどうでしょう?」

「じゃぁ、3万円ね。今日最終日でしょ、手で持って帰るから、包んで。」
その人は、意気揚々と作品を手に、会場出口に向かい、そして帰り際に振り返り、
「今度ね、来年になるかもしれないけど、画廊をつくるつもりなんだけど、いろいろ送っていい?」

この出来事が、私に作家活動を続けて行くための、大きな自信となったことは言うまでもありません。
何度もこの記憶が頭の中を無限ループしました。

一方、その人は有言実行し、今でも画廊を経営しています。
私自身は1998年と1999年に個展をさせて頂きました。
それがかつて吉祥寺にあった、ギャラリーJINなのです。

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三鷹市美術ギャラリー1995年12月19日~24日DM

世を忍ぶ仮の姿

画家と一口に言っても、さまざまなタイプの画家が存在します。
どれが素晴らしいというのではなくて、その人がその人らしく、
その人にしか出来ないような絵を描き、生き切ることが素晴らしいと思います。

しかし、画家なのだと自覚した今でも、
本当に自分が目指して来た理想の画家になっているのかどうか?

常にそう振り返る必要がありそうです。

流れに身を任せて、順風漫歩という時は良いのですが、
よく考えてみたら、ただ流されていて、
これで本当にいいのだろうか?と目が覚めることもあるのです。

そして、本当に自分の描きたいものを描いているか?
本当にこれが自分の理想の生き方なのか?

大抵は、そういう問題に気付くように、
いろいろなことが身辺に起きて来るようです。

2016年は、私にとってそういう問題が投げかけられた年になった、
そう、年末になって振り返っています。

そこで自分の「潜在意識」を深く掘り下げてみることにしました。
潜在意識ですから、意識の及ばないところですが、
長年の付き合いですから、何となく気持ちがわからないでもありません。

すると、意識ではこれでいいと言っていることが、
どうも無意識が納得していなくて、邪魔をしているということがあるようでした。

で、ある日図書館からの帰り道、ふとある言葉が降りて来ました。

「〜は、世を忍ぶ仮の姿」

「あっ、この言葉、子どもの頃、よくテレビなどでさまざまなヒーローが口にしていた言葉!」

私の中にもすっかりこの言葉が、知らず知らずに染み付いていることをはっきりと自覚したのでした。

この言葉がなぜ問題かというと、画家が画家らしく生きることを、邪魔していると気付いたからです。
長野では、画家という責任など何も感じなくてよい環境で、ぬくぬくしていて、
すっかり自分がどうありたいかを考えることもなくなっていたのでした。

黙っても来るスケジュールに、ただただ追い立てられて制作してしまっていました。

これでは、画家どころか、人としての成長さえも止まってしまいます。
多いに反省したのでした。

展覧会とか、個展とか、全然関係なく、本当の制作に向かう。

八面玲瓏、どこから見ても嘘偽りのない、一人の画家として、
自分の中の本当の声に従って制作する、
そういうあり方に、また再び一から出直ししているところです。

作家ご挨拶

リクエストを頂きましたので、
2016年夏に開催された「川田祐子展 ー 千年の翠」の展覧会会場で掲示した、
作家ご挨拶」パネルの文章をここに記録しておきます。
何かの参考になれば幸いです。

作家ご挨拶

夏に陽を浴び、秋に実り、冬の風雪に身を守った後には、必ず春に花開く。
自然と共に歩む絵画制作は、私にとって、信仰そのものです。

どれだけ自分を信じることが出来るか?
最初は、そう試されていると思うようにして活動して来ました。

その後に、今度は自分以外と思い込んでいた全ても、
本当は自分自身なのだと気づくようになりました。

そしていつの頃からか、自分を無くして制作に専念すれば、
作り手と見る人が一つになって、
喜んで見て下さる方々の力も集まって、
描けるようにして下さるのだと気付きました。

「絵だけでは食べて生きては行けない」と何度も人に言われて来ましたが、
私の経験的にあみだしたこの信仰によって、
長野で一人制作しながら、この展覧会の機会を与えられました。

一度も飢えることはなく、また我慢を強いられるようなこともなく、
制作の手を止めずに一心に打ち込んでいるうちに、
鶯が歌い、カッコウが囀り、雨上がりの空が笑うようにして、ある予感が届き、
必ず誰かの救いの手が差し伸べられて、
作品を求めて下さったり、寄付を送って下さったり、
画材や食べ物などの必要なものを恵んで下さって、
その日一日の問題が解決するのでした。

そして、明日はどうなるかはわからないけれど、
これからもそうして、1日1日を解決しながら生きて行くことでしょう。

川田祐子というのは、この世に生まれて来た時の仮の名前です。

本当は、私の制作活動を陰ながら理解し、励まし、絵を買い、
そして寄付などで支援してくださる方々こそが、寄り集まって
、川田祐子という身体を動かして、
この時代の文化を共同で彩り、絵画として制作しているのでしょう。

このような方々の多くは、何の縁も所縁もない面識のない人達で、
知らない遠い町から、あるいはお顔も名前も知られないようにして支援して下さる、
そんな大変奇特で慎み深い方々です。
おそらく、そっと知られないようにして、
見にいらっしゃっているはずですから、ご挨拶もままなりません。

この場をお借りして、ここにご支援の実りを共に喜び合う機会に恵まれましたことを、
心からお礼申し上げますと共に、
この経済利益優先の時代にあって、
理解され難い制作活動に、光をあてて発表の機会を下さった、
横須賀美術館館長並びに担当学芸員、
スタッフの方々に、厚くお礼を申し上げます。

                                         川田 祐子