先程玄米が届いてびっくり!FBの記事を見てのご支援と思います。
こちらからも改めてお礼申し上げます。大変助かります。
ありがとうございました。

これまで、苦難に見舞われる度に「塞翁が馬」と自分に言い聞かせて来ました。
この中国の故事にも足を折ったことが幸いした、という話が出て来ます。
実際、私の場合も困った時にこそ、救いの手が差し伸べられて、返って幸せを感じる体験を何度も繰り返して来ました。

その度に思うのは、自分よりも手を差し伸べる人に返って負担があるのではないか?ということです。
ところが、手を差し伸べてくれる人達は、不思議と決まって同じことを言うのです。「私の方こそうれしいです」

困っている人に伝えます。困った時には、正直に「困っている」「助けて下さい」と言いましょう。
必ず誰かが「救うことで救われる」ことを知っています。

学生の時に禅寺でプチ修行して、托鉢したことがあります。
老師から、「なるべくお金のない人からお金をもらいなさい、それが托鉢修行というものです」言われ、
寂れたシャッター商店街を歩きました。
なぜお金のあるところに行かないのかわからないし、随分嫌らしい感じもしました。

ところが「お金のない人ほど功徳が必要だからです」と言われたことが印象的でしたが、
でもぼんやりしかわかりませんでした。

ずっと後で、ハイデガーも同じようなことを書いていました。
「貧しくあるところにこそ、より富が集まる」そういう原理があるらしい。
この場合貧しいとは色々な意味が重なっていて、何も持たないという言葉が近いかも知れない。

全ては経過でしか確かめられないから、最終結果がわからない内に、人は貧困や苦難や病気を恐ろしく感じてしまう。
結果が出るには大変時間がかかるから、「貧しくあるところにこそ、より富が集まる」に納得出来ないものです。

今や国民全員が緊急事態宣言だけれど、作家はもうずっと長いこと、毎日が緊急事態です(苦笑)
そしていつも感じるのは、「困ったり、大変な時にこそ、心から感謝することが起きる」ということです。

追記:神社では、礼をつくし、感謝ではじまり、そして自分を含めた宇宙全体、万物の安寧を願います。
仏教では、すべての執着を捨てます。執着を捨てれば捨てるほど、充足が与えられます。
それを「知足」と言います。托鉢は、執着を捨てるためにあります。
お金を得るために行うわけではありません。
恥ずかしいとか、プライドとか、個人的にお金が欲しいというような余計な雑念を取り払うために行われます。